心理的安全性の重要性と難しさへの挑戦

先日、とあるスポーツの「かつての」強豪大学の監督が、

「私は、練習中に、怖がらせて、緊張させて、目の前のことに集中して取り組ませる指導スタイルだったが、その限界がきた」

とコメントしていました。「目の前の監督が怖い」という緊張感によって生み出される集中力は、思考の幅を極端に狭くします。つまり、「監督と一緒にいるこの瞬間をどう切り抜けるか」ということに集中しているのです。思考のほとんどは監督の顔色です。

・監督の言うことを、自分に当てはめてカスタマイズできない
・監督のいないところでは、疲労から何もしなくなる

となると、その逆である

・監督の言うことを、試行錯誤しながら自分に最適化していく
・監督のいないところでも、楽しんで学べる

を実現したチームには勝てなくなるわけです。
そして、そのような姿勢を身につけたい選手がさらに集まってきます。

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さて、今度は別のスポーツ強豪中学校での練習風景です。
監督と選手が、

やってみろ!
-はい!

違う!
-はい!

違うだろ!
-はい!

そうだ!
-はい!

というやりとりをしました。

選手は、もう「どこが悪いのかわからないけど、とりあえず違うと言われたら別のことをやる」という思考になっていることが想像できます。それは、「そうだ!」と言われても、どこがよかったのかわからない状況だとも言えます。

そして、これは勉強でもよく見かける風景なのです。

子どもは、隣にいる保護者の顔色を見ながら、答えを模索します。

違うでしょ!
-あ、違った…こうかな?…

それだと…
-あ、違った、こうだった!

というやりとりです。
もう親の顔色判別ゲームになっています。試行錯誤にはなっていません。なぜなら、判断の理由が全て「隣の保護者の顔色」になっているからです。

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これは、プレッシャーを与えるタイプの塾講師にも当てはまります。

・自分で判断して間違っても、怒られたりしないで理由を聞いてもらえる
・間違ったことをしても、そこから学びがあって自分のためになる

そのような心理的安全性を感じることが出来てこそ、目の前の学習内容に集中して、試行錯誤しながら吸収して、自分で考える力を伸ばすことができるのです。

恐怖感を与えると

・姿勢が良くなる
・黙る
・ペンを持って、教科書に目をやる

という形は整うかもしれません。しかし、思考は完全に劣化していくものです。

ですから、私たちは、子どもたちが気持ちよく間違いを恐れずに思考を広げる環境作りに注力すべきなのです。

しかしながら、理論を理解しても、なお大きな問題が残ります。
それは、恐怖感を与えるより、心理的安全性を与える方がはるかに難しいということです。

大人と子供の関係性において、恐怖感を与えるのはほとんどの大人にできることだと思いますが、心理的安全性を与えるだけのコミュニケーション能力のある大人は多くありません。

今まで子供たちを指導する立場になる人は、「自分が大人である」という絶対的な性質を利用して、接してきました。しかし、それが通用せず、許されないとなると、新たな能力を身に付けなければならないのです。

「今は、昔みたいな指導は許されないから」
「今の子は違うから」

という言葉からは、

「許されるなら、昔みたいな指導をしたい」
「今求められている指導は自分には難しい」

という思いが感じられます。そんな指導者はまだウヨウヨしています。

私たちはアップデートしなくてはいけません。新たな力を学んで初めて、子どもたちと接することが出来るのです。「子どもより長く生きた」「子どもより力が強くて権力がある」というのは、指導資格としてはあまりに貧弱になってしまったのです。

心理的安全性の有無は、論理的思考力の伸長に大きく影響します。論理的思考力を伸ばすには、「素早く間違えて、そこから素早く学ぶ」ことが大事だからです。それが間違えた瞬間に怒られるのであれば、思考が停止してしまうことでしょう。

論理的思考力を伸ばすには気持ちよく、安心して学ぶ環境

無関係なようで、最も重要な要素なのです。